初めての写真展

月曜日担当のyotaです。まずは近況を2つ。

①帰国しました

ドレスデン

ドレスデン

先週、添乗員を務めたドイツ&チェコの旅より帰国しました。1月のカンボジア、2月のアラスカに続き、今年3,4カ国目となりました。

東ドイツの古都ドレスデンと、チェコの首都プラハに3泊ずつ。高級磁器で知られるマイセンの磁器工房を見学したり、プラハ国立歌劇場では人生初となるオペラ鑑賞をしたりと、仕事とはいえとても貴重な経験ができました。

マイセンの磁器工房

マイセンの磁器工房で職人の技にふれました

プラハ国立歌劇場

豪華絢爛なプラハ国立歌劇場

  

ガイド中の一枚

そして今月末はハワイへ行きます。初めての訪問なので楽しみです。

 

②スタバで写真展をやっています

初めての写真展

初めての写真展

3月8日(日)より、二子玉川にある「Inspired by STARBACKS 玉川3丁目店」にて、アラスカで撮影した写真を展示しています!(4月4日まで)

IMG_4413.JPG

IMG_4388.JPG

コーヒーを飲みながら、アラスカの美しい自然を眺めていただけると嬉しいです。来訪の際は、ぜひコメント帳に一言お書きください!よろしくお願いいたします!

 

今週のテーマ「日本酒は好き?」

恥ずかしながら、日本酒についてはまったくと言っていいほど知識がありません。

しかし、ippeiも書いているように、3月21日(土)の「GOOD AT TOKYO 2nd PARTY」では、専門家の方を招いて日本酒イベントを開くことになりました。

当日は参加者と一緒に、ひとつでも多く日本酒の魅力にふれられたらと思います!会場でお待ちしています!


2020年までの夢

気付いたら旅を仕事にしていて、毎月様々な国を訪れ、刺激的な日々を送っている。世界は広く、これまで訪問したのはまだ30カ国に過ぎないけれど、この歳にしては貴重な経験をさせてもらっていると思う。

初めて一人旅をしたのは、大学3年生の夏だった。「日本地図は本当に正しいのだろうか」と思ったぼくは、「東京から福岡まで、この地図通りに道が繋がっていたら、地図を信じることにする」と伊能忠敬に喧嘩を売った。

IMG_3819-0.JPG

自転車で飛び出し、箱根の山、暑さ、そして筋肉痛に打ちひしがれた日々。それでも13日後、本州の西の端、関門海峡を前にしたときは、ジワジワと感動が込み上げてきた。

IMG_3817-0.JPG

道はちゃんと繋がっていた。日本地図は正しかった。伊能忠敬はすごい人だった。それは知識ではなく、身体に刻み込まれた記憶となった。

そして、温かい人たちとの出逢いがあった。

「お前さん、そんな荷物くっつけて、どこから来たんだ」

「東京からです」

「どひゃー!これ、持ってけ!」

とイカの丸焼きをくれた鹿児島のおじさん。

「素泊まり2500円」という破格の宿なのに、「良かったら一緒にご飯食べない?」と夜も翌朝も、食卓に誘ってくれた宮崎の宿のおばちゃん。

418050_359996290707299_1876976642_n

ほかにも、受けた恩は数え切れないほどある。初めて訪れた九州の人々は、信じられないほど優しく接してくれた。都会で20年間生きてきたぼくにとっては衝撃的な毎日で、日本を好きになるには、十二分の優しさを受けた。

そして、海外に行くことで、日本の魅力はより浮き彫りになっていった。魅力だけじゃない。

水道水をそのまま飲める、どこに行ってもコンビニがある、注文しなくても水が出てくる、公衆トイレにチップは不要…

日本を出るまでは「当たり前」と思っていたことが、「実は世界では当たり前じゃなかった」ということを旅は気付かせてくれた。ぼくが海外に出て日本の良さに気付くように、海外からやってくる外国人もまた、自国と比べて日本の魅力に気付くのだと思う。

【外国人と一緒に、日本を徒歩で一周しながら、日本の魅力を世界に発信していくこと】

これが2020年までに叶えたい、ぼくの夢だ。実現に向けて、少しずつ前進していきたい。


チョコレートの記憶

「バレンタインデーにチョコをあげる習慣なんか、なくなればいいのよ」

と話す女性がいた。

「穏やかじゃないですね」

「私、誕生日が2月14日なのよ。普通は私がお祝いされる日じゃない?それなのに職場には女性が数えるほどしかいないから、男性社員たちがみんな寄ってくるのよ。『チョコくださいよ〜』って。うるさいわよあんたたち!って。なんで誕生日なのに私があげなきゃいけないのよ!」

「あはは!面白いですね!笑」

「面白くないわよ!まったく。あなたはどうなのよ? たくさんチョコもらうでしょう」

「そんなことないですよ」

初めてチョコをもらったのは高校1年生のときだ。今以上に恥ずかしがり屋だったぼくは、放課後に違うクラスの女の子から渡されて、なんと言えばいいのかもわからず、逃げるように去ってしまった。

でも帰ってから食べたそのチョコは信じられないくらいおいしくて、「うわ、ロイズの生チョコよりうまい」と、とてもびっくりしたのを覚えている。後日、「おいしかった」の一言でも言えれば良かったのに、当時はそんな余裕すらなかった。

ひどいことをした罰なのか、その後、ぼくの身に嬉しいサプライズは二度と起きていないから、今では良い思い出になっている。

 

先日、郷土菓子研究社の林周作くんと飲んだ際、お土産にリトアニアのチョコレートをいただいた。新宿MSビルで開催されたチョコレートの祭典「サロン・デュ・ショコラ」でも出店していた「チョコレート ナイーブ」というブランドのもので、「ポルチーニ味」というから驚きだった。ポルチーニ茸は「キノコの王様」と呼ばれる香り高いキノコだ。確かにポルチーニの香りがしたが、味はおいしかった。変わり種をいただけて嬉しかった。

IMG_3047.JPG

そしてその翌日、ぼくも世界の最新チョコレート事情を知りたいと思い、「サロン・デュ・ショコラ」に足を運んだ。

色々と試食をしながら混雑する会場を歩いていたら、奥の方で見覚えのある瓶を見つけた。昨年フランスのアルザス地方を旅した際に出会った、「世界一のコンフィチュール」と称される「クリスティーヌ・フェルベール」の商品だった。コンフィチュールというのはジャムのようなものなのだが、ひとつで約2500円もした。現地でなら3分の1の価格で売られていることを知っているから、とても買えなかった。

IMG_3080.JPG

スタッフの方に、「フェルベールさんも日本に来ているんですか?」と聞いたら、「あちらにいますよ」と。すぐ近くに座っていたけど、誰も気付いていなかった。でもぼくは何度も雑誌でその容姿を拝見していたので、すぐにフェルベールさんとわかった。はて、彼女の横にいるのは、誰だ?

その方は、誰もが知るチョコレートブランド「ジャン=ポール・エヴァン」の、創業者本人だった。これまたみんな気付いておらず、チョコ自体に夢中の女性たちは素通りしていた。ということで、簡単に記念写真を撮ることができた。

IMG_3088.JPG

クリスティーヌ・フェルベールさん(左)、ジャン=ポール・エヴァンさん(右)

それから、チョコといえば昨年知り合ったのが「感動のトリュフ」といわれる京都北白川 チョコレート菓房 牟尼庵(むにあん)の横井さん。小さな会社なので、彼女はチョコ作りからマーケティングに店頭販売にと、すべてをこなす。一度チョコをいただいたことがあるが、本当に贅沢な味わいだった。先日飲んだ際もチョコの裏側の話が聞けて、とても面白かった。スペシャリストの話はたまらない。今までは京都と大阪でしか買えなかったが、昨年から松屋銀座の地下食品売り場にもオープンしているので、ぜひ一度食べてみてほしい。

(null)

(null)

製法だとか、難しいことは正直よくわからないけど、無数にあるチョコの中から、自分の好きな味を見つけたい。おいしいと「言われている」チョコではなく、おいしいと「思う」チョコを。口コミや情報に流されず、偽りなく好きな味を。旅をして、お気に入りの風景を見つけるように。

そんなことを考えていたら、高校生のときにもらった手作りのチョコが、どんな高級なチョコレートよりも価値があったんじゃないかと思えてきた。再現性がなく、サロン・デュ・ショコラでも手に入らないチョコレートだけど、記憶の中でなら、ぼくはいつでも味わうことができる。


もうひとつの時間

SONY DSC

頭上でオーロラが爆発したとき、ぼくは言葉を失い、夢中になってカメラを向けていたけど、最後は写真を撮るのもやめて、雪原の上に大の字になり、ただただ光のショーを眺めていた。この光景をしっかりと目に、そして記憶に焼き付けたかった。

昨日まで、仕事でアラスカへ行っていた。空港があるフェアバンクス到着時の気温は-39℃。外に出て、5秒もしないうちにまつ毛は凍っていた。信号を待つバスの中で、ガイドは言った。

「これが北米最北の信号機ですよ」

こんな極寒の地でも、確かに人は生活していた。

翌朝、フェアバンクスから10人乗りの小型飛行機に乗って、さらに400km北へ飛んだ。ちょうど夜明けの時間で、空の色はあまりにも美しかった。見下ろしたアラスカの大地は、川も木も、すべてが凍っていた。ヘッドホン越しに操縦士の声が聞こえた。

「ここから先が北極圏だよ」

北緯66.33度よりも北の世界。もちろん、目に見える境界線はない。ただ、「北極圏」という響きがぼくを魅了した。

1時間ほどして到着したコールドフットという場所は、世界最北のトラックストップ(ドライバーが休憩したり睡眠を取ったりする場所)であり、物資を運ぶために都市と北極海の町とをひたすら往復する大型トラックやタンカーがたくさん停まっていた。

コールドフット

「世界最北のトラックストップ」コールドフット

巨大タンカーの運転席に座らせてもらった

巨大タンカーの運転席に座らせてもらった

夜、コールドフットからさらに北へ20kmほど走り、ワイズマンという小さな村を訪れた。かつてはゴールドラッシュで栄え、多くの人が集まっていたが、現在の人口はたったの12人。その貴重な村人のひとりであるジャックさんが、暖炉のあるロッジの中で、この村での生活について話してくれた。

夏に収穫したジャガイモやニンジンを雪の下に保存して、一年かけて食べるのだそうだ。そして自ら猟に出て、カリブーやムース(ヘラジカ)、ドールシープ(山羊)などを獲ってくる。もちろん近くに学校はなく、子供の教育も家庭で行うのだそうだ。ジャックさんが見せてくれた家族写真には、この村の人口の4分の1が写っていた。みんな、とても幸せそうな笑顔だった。

スーパーなどがある町まで400kmも離れた、周囲に何もない北極圏の世界で、こうして暮らしている人がいるということ。それを知れたことは、大きな財産になるだろう。ぼくはここに暮らしたいとは思わないが、人それぞれ、自分にあった暮らしというものがある。ジャックさんにとっては、きっとここで暮らすのが幸せなのだ。

外に出てみると、広い空にオーロラが現れた。最初は雲のような、薄い白色だったが、徐々に発色してきた。しばらくして、爆発した。光の筆先は、広いキャンバスに幻想的な絵を描いた。

SONY DSCSONY DSC

この地では、年間240日前後オーロラが出るといわれている。ジャックさんは、もう飽きるほど見ているのだろうが、旅行者であるぼくにとっては、幸福の瞬間だった。きっとどんな場所にも、そこで暮らす者の幸せがあり、そこに暮らさない者の幸せがあるのだろう。日常と非日常は同居している。

アラスカに生きた写真家・星野道夫さんと結婚した直子さんは、1993年に初めてこの地に降りた。これからアラスカで始まる新しい生活に少なからず不安を持っていた彼女は、結婚パーティーの最中、現地のカメラマンにこう言われたのだそうだ。

「いいか、ナオコ、これがぼくの短いアドバイスだよ。寒いことが、人の気持ちを暖めるんだ。離れていることが、人と人とを近づけるんだ」

インターネット、そしてSNSの発達によって、世界との距離はさほど感じなくなったけど、人と人との心の距離は、もしかしたら遠くなりつつあるのかもしれない。コールドフットは電波も入らず、ロッジにはwifiもなかったから、情報の海から久しぶりに離れることができた。仕事のことだけを考えていればよく、とても心地良い時間だった。SNSとの付き合い方を考えさせられた。

本当の人とのつながりとは何なのか。幸せとは何なのか。極北の大自然は、ぼくの心に強く、そして優しく語りかけた。

東京で慌ただしく過ごす時間と並行して、アラスカでは「もうひとつの時間」が流れている。満員電車にもみくちゃにされているとき、グリズリーベアは遡上するキングサーモンを捕らえているかもしれない。原稿を書いているとき、エスキモーはクジラを追いかけているかもしれない。友人の投稿に「いいね!」を押す間に、いったいいくつの流れ星が通り過ぎているのだろう。タイムラインに現れない世界が、今この瞬間も、同時に存在している。それを意識するのとしないのでは、生きるうえで大きな違いになるのかもしれない。

記憶の中に、たくさんの風景を残していきたい。そして、どこに住んでいたとしても、どんな仕事をしていたとしても、ゆったりと流れる「もうひとつの時間」を、いつも心の片隅で感じていたい。

SONY DSC


登山家・栗城史多さんから預かった「秘密の封筒」の中身とは

「どうして、フランスで転倒事故を起こしてしまったのか」

ニースの町を歩きながら、ひたすら考えてみたけど、結局その理由がわかったのは、事件から半年後のことだった。

今週のテーマ「忘れられない旅の思い出」


事件はその2日前に起きた。2010年の夏のことだ。

自転車でヨーロッパを旅していて、ちょうど1ヶ月が過ぎた頃だった。美しいブドウ畑を眺めながら、ぼくは南フランスの田舎道を気持ちよく走っていた。

途中、曲がり角に差しかかる手前に、小さな水たまりがあった。とくに気を止めず走っていたが、それがガソリンだと気付いたときには、すでに自転車は宙に浮いていた。時速30kmでの転倒。後続車の急ブレーキが少しでも遅れていたら、死んでいたかもしれない。

幸い、大きな怪我にはならなかったが、顔と肩の傷が傷んだのと、少し精神的にも取り乱していたため、休養のため、1泊しかしない予定だったニースで3泊することにした。ぼくは町を歩きながら、「なぜ怪我をしたのだろう。なぜニースで3泊もする『必要』があるのだろう。きっと何か、意味があるはずだ」とずっと考えていた。

マクドナルドで横に座っていた女性が日本人だと気付いて、思わず話しかけてしまった。すると、ぼくが旅の資金をスポンサーで集めたということに興味を持ってくださり、「ぜひ、旦那に会わせたいので、今晩夕食をご一緒しませんか?」と言われた。その方の旦那さんは、とある有名企業の社長さんで、たまたま出張でニースに来ているとのことだった。

夜。川口社長は、ひと通りぼくの話を聞き終えると、

「中村くんな、俺も、ある男のスポンサーになってるのよ」

と言った。「誰のですか?」と聞くと、ぼくの尊敬する方だったので、とても驚いた。

「エベレスト登山家の栗城史多くんという子だよ」

当時はまだ、今ほど有名にはなっていなかったが、ぼくはNHKのドキュメンタリー番組で栗城さんのことを知り、夢に向かって挑戦する彼の姿に深い感動を覚えた。

「栗城さんは、ぼくの尊敬する方です。いつかお会いしたいと思っています」

と、社長に伝えて、その場を後にした。

ニースにて。川口社長と、奥さん

 

憧れの人に会うも・・・


それから、半年後。

学生最後の春休みを過ごしていたぼくのもとに、突然川口社長から電話がかかってきた。

「今度栗城くんとメシを食うから、中村くんも来ないか?」

それで、ぼくは社長の家で、栗城さんに会うことができた。しかし、これは新たな旅の始まりに過ぎなかった。

「実は明日から、卒業旅行で四国を一人旅するんです」

楽しい食事の間、何気なく放った言葉に、栗城さんはさらりと言った。

「せっかくだから、なんか面白いことしなよ。たとえば、無一文で行くとかさ」

「それは面白いな!はっはっは」
社長は気持ち良さそうに酔っていた。


いやいやまさか、と思ったが、栗城さんは冗談で言っている顔ではなかった。尊敬する人の前で、「嫌ですよ」とは言えない。

「…わかりました。やります。ぼくの財布を、社長の家に預けていきます。ですが、青春18切符はもう買ってしまったので、これだけは使わせてください。あとは無一文で行きます」

その瞬間から、ぼくは本当に無一文になった。

「無事に帰ってきたら返してやるから。はっはっは」

ぼくの財布は棚の中へ

ぼくの財布は棚の中へ


青春18切符は持っていたので四国までは行けるが、まずこれから家に帰るお金がなかった。

すると社長が、1000円だけチャージされたPASMOを渡してくれた。

「今夜はこれで帰れ。はっはっは」

所持金0円。わずかな食料、そして栗城さんに渡された「秘密の封筒」を持って、ぼくは旅に出た。

栗城史多さんと

栗城史多さん

謎の封筒

秘密の封筒

 

無一文の旅が始まった

翌朝。西へ向かう電車の中、twitterで、「今日から無一文で旅をする中村洋太です。今夜は大阪で一泊します。どなたか、晩ご飯と泊まる場所を恵んでいただけないでしょうか」とつぶやいた。

さらに、

 

 

栗城さんが紹介してくださったこともあり、全国の栗城さんファンの方々から、「無一文の旅、頑張ってください」「四国に来たら会いましょう」と、励ましのメッセージが届いた。


また途中、こんなピンチも。


(切符は無事、熱海駅の落し物窓口で見つかった)

 

そしてその後、ある方から実際に連絡があった。「よかったら、ここに来てください」と言われて向かったのは、大阪にある「堺筋倶楽部 AMBROSIA」という高級イタリアンだった。何かの間違いだろうと思ったが、恐る恐るお店に入ったら店員の女性が「お待ちしていました。大変でしたね〜」と笑顔で迎えてくださった。

初日の夕食

初日の夕食(の前菜)


いきなりのコース料理。それも、こんな高級な料理を食べたのは人生で初めてのことだった。「お金を請求されたらどうしよう…」とビクビクしながら食べたのを覚えている。無一文のはずなのに、いったいこれはどういうことだ。

そしてまた別の方が、自宅にぼくを泊めてくれた。自分のお金で、普通に旅をしていたら、会うはずのなかった人と、会っていた。

これはいったい…。頭の中には「?」がたくさんだった。

「今日は○○へ行きます。旅の話をしますので、よろしければ何か食べさせてください or 一晩泊めてください」とtwitterでつぶやいては、反応を待ち、声をかけてくださった人に会う。そんなギリギリのことを繰り返しながらも、本当に11日間無一文で四国を旅することができた。 誰に会っても、「ほとんど食べてないでしょう。たくさん食べなさい」と皆さん決まってご馳走を恵んでくださったおかげで、逆に太って帰ってきてしまった。

徳島で林業を営む社長さん

徳島で林業を営む社長さん

たくさんの方が親切にしてくれた

たくさんの方が親切にしてくれた

 

 旅を終えて

人に自慢できる話ではない。でも、この体験をすることには、純粋に価値があったと思う。

こんなにお金について考える時間を持ったのは初めてだった。人の援助があったからとはいえ、お金がなくても旅ができてしまい、「じゃあお金っていったいなんだろう」と、来る日も来る日も考えていた。


「ポケットに財布がない」というのは、とても落ち着かないものだった。しかし、日が経つにつれて、解放感が生まれて気持ちよくなってきた。お金を忘れる、お金から自由になる、という状態だったのかもしれない。

お金を持つ普通の生活に戻っても、「無一文」の精神は大切なことだと思った。無一文の精神、それは、「必要のないものは買わない」=「本当に必要なものだけを買う」ということだ。「普段だったら、ここで飲み物を買ってしまうな」と思うことが何度かあったが、もちろんお金がないので買うことはできない。しかし、時間が経ってみても、そこで飲み物を買う必要性を感じることはなかった。欲しい、と思ったけど、別に必要なかったんだなと思った。無一文になったおかげで、生きていくうえで本当に必要なものは何かと、真剣に考えるようになった。

無一文。それは流れていく感覚。お金がないことによって、選択肢は減る。しかし、選択肢の少ない方が、余計なことに悩まなくなり、人生はシンプルになるのかもしれない。漫画『バカボンド』に出てきた言葉を思い出した。


お前の生きる道は、これまでもこれから先も、天によって完璧に決まっていて、それが故に、完全に自由だ。



お金があれば、自分の行きたいところへ行き、食べたいものを食べられる。でも無一文でいると、どうしても人の助けを借りないと生きていけない。手を差し伸べてくれた人を信じ、頼りにするしかない。お世話になるからには、「こうしたい」「ここに行きたい」という強い主張はできない。だから、一見「全く自由じゃない」ように思える。

しかし、結果はどうだっただろうか。ぼくは自分の頭で考えて行動していたら会えない人に会えた。お金を持っていても泊まれなかった場所に泊まれた。自分自身が風のように漂い、余計な力を抜いて、何にも逆らわずに流されていくことで、むしろ完全な自由を手に入れることができるのかもしれない。そして旅の価値は、お金によって左右されないのかもしれない。

人間は「自然の流れ」に逆らってはいけない。「自然の流れ」は、人間の判断ごときで敵う相手じゃない。大きな流れに体をゆだねれば、もっと人生は楽になると思った。



もしあの時、転倒していなかったら

恵比寿の改札を抜けると、社長が手を振って待っていた。ぼくは無事に帰ってきて、ぼくの財布も無事に返ってきた。

財布返還式

財布返還式


「ようやったよ、中村くん」


おいしいお寿司をご馳走になりながら、社長と語り合っていた。

「そういえば、栗城くんに封筒もらったやろ。あれ開けたか?」

「いえ、開けずに済みました」

「ほんなら、ここで開けてみよ」

CIMG0222

その封筒の表には、「本当に辛かったら開けてみてちょ」と書いてあったから、ぼくはきっと、お金が入っているんだと思った。いざというときには、栗城さんがそのお金でぼくを助けてくれたのだろうと思っていた。

しかし、入っていたのはお金ではなく、一言だけ書かれた紙切れだった。

・・・


「苦しみに感謝」


それで、ようやくわかった。半年前、南フランスの田舎道で転倒事故を起こした理由が。この言葉の意味を、体験を通してぼくに教えてくれたのだと思う。

もしあの時、転倒していなかったら、ぼくはニースのマクドナルドで社長の奥さんに話しかけることもなかったし、栗城さんに出逢うこともなかったし、無一文の旅をすることもなかったし、旅先で素敵な人たちに出逢うこともなかった。自分の身に起きるすべての出来事には、何かしら意味があるのだと思う。だから苦しみにも、感謝なのだ。