さいごのひときれ

どうやら、今年で26歳になるらしい。

誕生月まで後10ヶ月ほどの猶予があるため実感はあまり湧いていないけれども、なんだか遠いところまできてしまったな、と途方に暮れている。過去の思い出に浸りながら、ぬらりと生きているような毎日なのに。過ぎ去った日々の記憶は、時が経つほどにきらきらと眩しさを増して私の目を射るのだ。

小学1年生の時、全校集会で体育館の端に並ぶ6年生はとても大きく見えた。25歳になった今でも、記憶の中にいる上級生達は厳然としてお兄さん、お姉さんである。彼らは、今の私が腕の中にくるんでしまえるような小学生であったはずなのに。回想をする時、私はちっぽけな子供へと戻る。

年齢とは決して、子供と大人をわける絶対的な指標ではないように思える。小さな頃は成人すれば大人になるのだと信じていたけれど、20歳の誕生日を迎えた日も、着飾って成人式に向かった日も、私は昨日の私の連続でしかなかった。社会人として毎日働いていても、親と会えば自分が子供のままのように感じられる。

「歳をとるのはあっという間だよ。大人だなんていう実感もないまま、こんな年齢になっちゃった」とかつて誰かが話していた。彼女は、その時30歳を過ぎていたはずだ。私だって、この前大学を卒業したと思ったらもう26歳。はるか遠くにあると思っていた「アラサー」に片足を突っ込んでいる。私は、いつ大人になったのだろう。いや、本当に大人になんてなっているのだろうか。

「そりゃもう20代後半なんだから大人に決まっているよ」とも思うけれど、大人になる年齢というのは不確かなものである。日本の歴史を振り返れば男の子達は15歳ぐらいで元服し、もう大人として扱われていたのだ。15歳なんてまだ子供じゃないの、と私は思うけれど。彼らは自分が大人になったということになんの疑問も抱いていなかったのだろうか。今よりも寿命の短い時代だから、子供として悠長に日々を過ごしているわけにはいかなかったのかもしれない。

大人とはなにか、と考えれば考えるほどわからなくなる。かつて社会心理学者のミードが言ったように、子供は大人の真似をすることで社会的役割を取得していく。やがて社会を構成する一員となれたなら、それが大人になったということなのか。それとも、精神面での成長が不可欠なのか。そうだとすれば、成長という連続的な過程において子供と大人の境になるものとはなんだろう。そんなものは元より定義できないから、元服式や成人式なるものが存在するのかもしれない。子供、大人なんていうものはただの枠組みでしかなく、誰かが好きなようにその定義を決めて、きりの良い日に一律に大人という役割を与える。

でもその枠組みとは別に、自分の中にも子供、大人の区別が存在している。それはとても主観的なもので、子供として連続してきたわがままな私ではなく、大人としてのもっと別の私にいつかなれるのではないかと、成人になった今でも漠然と考えている。けれども、自分の価値観が大きく変わるようなことはなかなかない。変わらずにいるかぎり、子供だった今までの自分とは決別できない。たとえ、外部から「大人」という役割を与えられたとしても。

それなら、私が本当に大人になれるのは、いつか子供を持った時かもしれないな、なんて最近は思っている。それが、唯一これから私の価値観を大きく変えうる出来事ではないかと、期待しているのだ。自分を犠牲にしてでも守りたい、慈しみたい存在ができた時、価値観も日常もこれまでとは違ったものになるだろう。

甘え、ほしがってばかりの私が、教え、与える側に回る。この関係性によって、ようやく名実ともに私は大人になれる気がする。まだ小学1年生だった私たちに色々なことを教えてくれた上級生が立派な大人に見えたように、大人であるということに年齢など関係ない。そして、人から大人と思われることと、自分自身を大人と認めてあげることはまた違うのだ。

親になったら、精一杯大人ぶってやろうと思う。これまで甘えっぱなしの人生で、人から教わることが非常に多かった分、教えられるものの蓄積はある。たくさん頭を撫でて、たくさん抱きしめて、私がこれまでもらってきた愛情を今度は子供にしっかりと伝えてあげたい。些細な問いもおろそかにしないで、一つずつ真剣に答えてあげたい。世界中のきれいなものを見せて、世界中の美味しいものを食べさせてあげたい。いくつになっても私はただの私でしかないけれど、きっと子供の前では立派に大人になれるだろう。

小さな頃、お皿に乗ったりんごの最後の一切れを「いいよ、食べなさい」と両親がいつも私にくれた。大人になると好きなりんごを食べるのも我慢しなければいけないのか、悲しいなあ、申し訳ないなあ、と子供心に思っていたけれど、今ならわかる。自分で食べるりんごより、大切な人が嬉しそうに食べてくれるりんごの方が、甘い甘い味がするのだ。


ゆっくりながれる

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三軒茶屋に越してきて一ヶ月半が経った。行きたかったラーメン屋や居酒屋を色々とめぐっているけれど、すべて行き尽くすにはまだまだ果てしなく時間がかかりそう。知れば知るほど、食のよろこびに溢れた町だなあと思う。

家の立地は素晴らしい。駅から80歩程度のところにあり、近所の西友まで行くのには3分もかからない。他にも、肉のハナマサ、東急ストア、カルディなどが近くにあるため、料理をする際に困ることがない。コンビニは家から30歩程度のところに2軒。先日、キッチンに立ち「さあ、納豆サラダを作ろう」と冷蔵庫をあけてから納豆がないことに気づいたのだけれど、コンビニですぐに納豆を入手できたので、サラダを諦めずに済んだ。ありがたい、ありがたい。駅からすぐの本屋さんは日付が変わっても営業しているため、会社帰りにふらりと寄れる。そのせいで、家が食べ物系の雑誌やレシピ本であふれかえってしまっているけれど。

そんな調子なので、今週のテーマ「一度は住んでみたい場所」をじっくり考えてみたけれどまったく思いつかない。今の家よりも便利な場所があるとは到底思えない。ずっとここに住みたい。いつまでも住みたい。

ただ、マンションが246沿いにあるため、いつか子供が生まれたら排気ガスも心配だしどうかなあと思ったりもする。できれば子供は、たくさんの自然の中で遊ばせたい。自然を感じられる私の大好きな場所と言えば、千葉県である。先週末も、ごみごみした東京を離れてリフレッシュしたくなり、千葉へドライブに連れて行ってもらった。三軒茶屋のような便利さは多少失われてしまうけれども、車があればとても楽しく週末を過ごせる場所だと思っている。

千葉の大好きなところ。まずはなんといっても、ラーメン。千葉のご当地ラーメンである竹岡式ラーメンや勝浦タンタンメンを食べるために房総半島をドライブするのも楽しいし、他にも名店と呼ばれるところがたくさんある。

先週末は二軒食べに行ったのだけれど、特に松戸「兎に角」の麺は美味しかった。松戸はわざわざ車で行くほどでもないほど近かったので、また近いうちに電車で行きたい。混んでいそうで断念した「とみ田」にも。レンタカーだと2時間並ぶのはもったいない気がしてしまうけれど、電車なら良いかな。やっぱりそれぐらい並ぶのかしら。

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お魚が美味しいのも、千葉の良いところ。千葉へ旅行に行く時は海鮮丼を食べることが多いかもしれない。海の近くで食べるというだけで、なんだか一層美味しく感じられるのだ。気取らない食堂に入ってのんびりいただくのが好き。

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お魚と言えば、釣り。初めて釣りをしたのが千葉で、その後もちょこちょこ足を運んでいる。木更津へ行くことが多いかもしれない。少し遠いけれど、外房で釣りをしたのも楽しかったな。今までで釣れて一番嬉しかったお魚はカワハギ。大きなお魚は釣ったことがないので、あたたかくなってきたらまた挑戦しに行きたい。

広い海を前にして、釣竿を握りながらぼんやりしている時間が好き。潮の匂いのする空気を、胸いっぱいに大きく吸い込む。雲がゆっくり流れていて、波は淡々と現れては消え、ごちゃごちゃしたものが何もない世界。

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それから、自然といえばキャンプ。去年は千葉で四回キャンプをした。木々に囲まれた牧草地のキャンプ場や、波の音が聞こえるキャンプ場など。低地なので秋キャンプもそれほど寒くないところが良い。近くのスーパーや直売所でお野菜、お魚、お肉なんかを買い込み、炭火でじっくりと炙って味わう。

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キャンプ場の自然の中にいると、見たこともないような美しい景色に何度も出会える。ねえ、後ろ、と言われて振り返ると、海の上に大きくかかる虹。思わず息をのんだ。

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外房のキャンプ場で見た星空には感動した。ぶれないように車の屋根の上にそっとカメラを乗せて、タイマーで何枚も何枚も写真を撮った。このシャッタースピードだときれいに撮れたよ、なんて小声で教えあったり。しん、と静まり返ったキャンプ場に、ただただ波の音だけが響く。星が降るような空って、こういう空のことを言うのね。あまりにも雄大で、見上げると胸が詰まった。

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テントで一泊した次の日には、近くの温泉を目指すことが多い。広い露天風呂を持つ温泉施設が、千葉にはたくさんある。重いキャンプ道具を運んで少し疲れた身体が、あたたかい湯によってほぐされていく。至福の休日である。

友達みんなでコテージに泊まる、というのも楽しい。コテージフラミンゴがお洒落でとても気に入っている。広いキッチンにてみんなで料理をした後は、お酒を片手にテラスへ。山の上のきれいな空気を味わいながらおしゃべりをする時間がとても幸せ。

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私にとっての千葉は、非日常を感じられるリゾートである。実際に住んでみたら、非日常ではなくなってしまうのかもしれないけれど。ああ、でも、それもそれでなんだか幸せかもしれないな。東京よりも少しだけゆったりと時間が流れる場所で、日々を大切に暮らしたい。

次は、少し遠いけれど銚子に行ってお魚を食べようかと思案中。そして春になったらまたキャンプを。


二人でお酒を

DSC03059 tadalafil citrate 何事も、「初めて」というのは尊いものだ。楽しみなようで、けれどもなんだか怖くて、速まる自分の鼓動を感じながら未知の世界へと足を踏み出す。初めて出会った場所、初めてキスをした日、初めて車に乗って出かけた先の海の音。「初めて」にまつわる色や匂いや温度は、小さな欠片となって私の中に積もっている。 online viagra 恋愛にはもう食傷気味だけれど、自分の家庭を持つという経験はしたことがない。「初めての結婚」は、私が残りの人生で楽しみにしていることの一つだ。ただの「彼氏」だった相手が「旦那さん」になるというのはどんな気持ちなのだろう。自分達の家庭を二人で大事に育んでいくのは、どれほど大変でどれほど幸せなのだろう。これこそ、一生をかけた大仕事である。 私が小学生の頃、来る日も来る日も両親が喧嘩ばかりしている時期があった。週末、塾から家に帰ると十中八九怒鳴り声が聞こえて、その度に心臓がきゅっと縮み上がった。「月曜日になったら離婚届を取りに行くから」という言葉を耳にした瞬間、わんわん泣いた。そんな両親も、なんだかんだで数多の危機を乗り越えていまだに夫婦として仲良く暮らしている。LINEの家族グループで、二人のやり取りを見ているとなんだか微笑ましい。 実家にいた頃、父が会社から帰ってくる時間が好きだった。母と妹と私が静かに夜ごはんを済ませて、そのままそっと一日が終わってしまいそうな時に、父から「今から帰るよ」という連絡が入る。すると、つまらなそうにしていた母がさっと台所へ向かい、父の分の夜ごはんを温め始めるのだ。そんな時のガスコンロのしゅんしゅん、という音を聞くと、終わりかけていた一日がもう一度戻ってきたような気がしてわくわくした。やがてチャイムが鳴り父が家に入ってくると、母は急に饒舌になり笑顔が増える。そんな様子を目にして私はいつも、「ああ、お母さんはお父さんのことが大好きなんだなあ」と嬉しくなったものだった。子供は、両親の間の愛に確信を持てるだけで幸せになれるのだ。 generic viagra online canadian pharmacy 居間のテレビが点き、緑茶の香りがほのかに漂って、ぱっと明るさを増した家の中で、私は名残惜しいような気持ちを抱えながら安心しきって布団にくるまる。ふすまの隙間から漏れる居間の明かりと、もそもそと聞こえる両親の話し声が好きだった。何を話しているのか聞きとりたくてふすまにぴったりくっついては、「早く寝なさい」と怒られた。 DSC04764 genericcialis-cheaprxstore.com ただ単に、好きな人とずっと一緒にいること、が結婚なのではないのだろうと思っている。二人だからこそ作れる家庭を、何十年もかけて大事に育てていくのが結婚の醍醐味なのではないか。だから、いつか子供を産んで、子供が自慢できるような家庭を作りたい。私が自分の育った家庭を自慢に思っているように。そして、結婚した相手のことも、子供のことも、ずっとずっと愛せる自分でいたい。 cialis harvard case study 私は両親や妹に対してどんなに腹を立てた時でも、同時に「それでもやっぱりこの人が大事。この人が死んでしまったらとても悲しい」と思っている。ただの恋愛相手だったらこうはいかない。恋心が冷めたらそれ以上一緒にいる理由はない。お別れをしておしまいである。結婚をしてもきっと、相手の嫌な部分ばかり見える日はあるだろうし、何かに没頭して相手をないがしろにしてしまう時期もあるだろう。それでも「好き」「嫌い」などというある意味一時的な感情を超えて、人と人とをしっかり繋ぎ止めてくれるのが家族愛なのだろうと思う。 人の気持ちが無常であることなんて、痛いぐらい知っている。でもたとえこの先に恋心が薄れていってしまったとしても、それでもずっとこの人を大事にする、命が尽きる時までそばにいるという覚悟を決められたなら、その相手と結婚がしたいなあと思う。 DSC04957 二人で経験した様々な「初めて」のことや、その時に感じた気持ちは、いつまでも忘れないでいたい。昔、両親が喧嘩した夜、父の部屋で見つけた母からの手紙を目につくところにそっと置いてから寝たところ、次の日二人が仲直りをしていてほっとした記憶がある。母が、父のプロポーズに対する返事を書いた手紙だった。初心忘れるべからず。時々、そんな「初めて」の思い出を二人で撫でくりまわして懐かしみたい。寝室の方へ漏れる明かりを横目に、二人でお酒を酌み交わしながら。


ごはんの記憶

旅で印象的なのは、ごはんの記憶である。特に、異国で出会う珍しい料理は旅の回想に欠かせない。メニューの単語一つひとつを手がかりにしながら味を想像し、ジェスチャーをまじえながらなんとか注文を終える。しばらくして運ばれてきたものが、予想とまるっきり異なっていたなんていうことは日常茶飯事。未知であるからこそ、想像の上を行く美味しい料理、面白い料理に出会えたりするのだ。

遠い空の下で食べたごはんを思い返していると、その時一緒にいた人達、交わした言葉、外気にまじる匂い、町の喧騒なども一緒に蘇る。ぐっと力強く思い出の中に引きずり込まれ、まとわりつくような熱気、あるいは刺すような冷気を感じながら、しばらくじっとそこに留まっていたくなる。ここではない、遠い遠い場所。まるで夢であったかのような非日常の世界。

生まれて初めて海を渡り訪れた国は、中国だった。私が大学三年生の時である。北京大学の教室で中国語会話を勉強するという三週間の授業で、約二十人ぐらいが参加していた。午前中は授業、午後は観光で、ホテルに帰るとくたくただった。次の日の授業の予習をして泥のように眠る。

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北京についてから数日で、熱を出した。寒気と眩暈がするような高熱で立っているだけでも辛かったのだけれど、「北京ダックの有名店を予約しているから、せっかくなので行きましょう」と先生がおっしゃるので二つ返事でお店へと向かった。食い意地の塊である。お肉を薄い皮でくるくる巻く作業すら辛く感じ、味覚も平常時より鈍っていたかと思うけれど、それでもジューシーなあのお肉の味は今でも舌の先に残っている。円卓を囲んだ食事がいかにも中国らしかった。

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皆で色々な場所をめぐった。お肉がたくさんつるされたスーパーマーケット。一食一食がとても安い北京大学の食堂。日本にもある火鍋のお店「小肥羊」では、お仕事そっちのけで集まってきた店員さん達に、皆で日本語を教えた。「こんにちは」の一言を覚えて喜ぶ姿に、こちらまで嬉しくなったことを覚えている。一人、笑顔がタイプの店員さんがいて、帰り際に勇気を出してツーショット写真を撮ってもらったのも懐かしい。

最後の夜は、上海のホテル近くで家族経営をしている食堂にて飲み会をした。初対面にも関わらず「日本に帰らないでほしい。結婚してほしい」と口説かれている先輩をあたたかく見守ったり、「日本に行ってみたいけれど航空費が高いから……」と言う女の子に日本語を教えたり、皆でわいわいと愉快な夜を過ごした。日本に帰ってからも気軽に連絡をとる手段がほしかったのだけれど、あの頃中国では「QQしかやってないんだ」と言う人が多かった。今だったらフェイスブックを使っていたりするのかしら。私はもう、あの頃中国で出会った人達と再会することはないだろうけれど、時々、蛍光灯が青白く光るあの食堂を懐かしく思い出すことがあるのだ。彼女はまだあそこで働いているのかな。それとも日本へ来られただろうか。

次の年の夏、友達と5人でタイ、カンボジアへ行った。事前に航空券だけ買っておき、後はバックパックを背負って放浪する10日ほどの旅。初めに行ったタイのカオサン通りは観光客や現地の人々が入り混じる活気のある場所だった。近くのゲストハウスに宿を取り、ふらふらと屋台を覗いては異国情緒溢れるチープな料理を貪り食べた。東南アジア特有の、スパイスの香りを含んだ濃厚な空気にくらくらした。

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コンビニでチャーンやスパイなどのお酒を買って少しずつ飲みながら歩きまわるのが、お行儀は悪いけれど楽しかった。スコールに降られて慌てて商店街の軒先に駆け込む。雨やどりをしながら友人の吸う煙草の煙が、少しずつ夜の闇に溶けていく。

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パタヤではリゾート気分を満喫しようと、少しだけ贅沢をしてお洒落なテラス席でカクテルを味わった。贅沢と言っても、日本の居酒屋と同じぐらいの値段である。金銭感覚がおかしくなってしまうぐらい、タイは何もかもが安かった。それでも、あの頃は学生でそれほどお金を持っていなかったので、旅の終わり頃には困窮していたなあ。社会人になった今、もう一度タイに行ってみたい気もするけれど、あの頃みたいにゲストハウスで眠ることはもうないだろう。トイレの個室で水シャワーを浴び、便器も床も何もかもびちゃびちゃになるような経験はきっとあの時かぎり。大切な記憶。

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カンボジアだったか、遺跡見学の途中で昼食をとった時に、牛肉をのどに詰まらせた。大きな塊を、横着して無理やり飲み込もうとしたのが悪かったのだ。「ぐえっ」と変な声が出て、一瞬死を覚悟した。目を白黒させるとはまさにこのこと。隣にいた友人にバンバンと背中を叩いてもらい、すんでのところで生還した。そんな死に方はいやだ。

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ところが災難は続き、カンボジアからタイに戻ってきた日に高熱を出した。外国で体調を崩しがちなのである。一人、ゲストハウスで丸くなって二日間ほど眠った。測っていないが、体感で39度ぐらいは出ていたのではないかと思う。とんでもない腹痛にも襲われ、むくりと目を覚ましてはトイレへ駆け込んだ。屋台で食べたチヂミに入っていた牡蠣が悪さを働いたのではないかと疑っている。まさか牡蠣が入っているとは思いもよらなかった。やっぱり私は東南アジアの地で死ぬのかなあと考えては眠り考えては眠り、ようやく熱が下がり始めた深夜、りんごジュースを求めて一人でカオサン通りへ繰り出した。ゲストハウスのWi-fiで必死に調べたところによると、りんごがおなかに良いらしいのだ。一人で歩くタイの夜はやはり怖くて、りんごジュースを握りしめてそそくさとコンビニを飛び出した。あの時の不安感を思い出すだけでまだドキドキする。

おなかにやさしい食べ物の一つにうどんも挙げられていたので、最終日はバンコクにある日本料理も出すお店で鍋焼きうどんを食べた。めずらしいもの、辛いものをたくさん食べようと意気込んでタイ、カンボジア旅行に臨んだのに、最後の最後で鍋焼きうどんか……と脱力である。帰国したらラーメンを食べたいとずっと思っていたのだけれど、家についてまず作ったのはお粥だった。牡蠣はこわい。

約半年後、女友達と二人でバリ島へ行った。これまた貧乏旅行で、クタ・レギャンのお安い宿に泊まった。お風呂は、ドアをあけた次の瞬間にはぱたんと閉じ、「ここは使わないようにしよう。スパでお風呂に入ろう」と決意したぐらい汚かった。

町には安くごはんを食べられるお店がたくさんあった。一月の日本の寒さを忘れるような熱気の中、二人でいかにもリゾート風なマキシワンピを着て、人と車で溢れかえるクタの夜道を歩いた。「あまり遅い時間に女性だけで歩いてはいけません」とガイドのおじさんに何度も念押しされていたので、毎日22時ぐらいには宿に戻っていた気がする。初日の夜は建物の屋上にあるテラス席で中華料理をいただいた。淡く光るテーブルランプがお洒落だった。

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滞在した四日間ぐらいは、毎日三時間超えのスパに行っていた。最終日はスパ疲れしていたなあ。お昼には必ずナシゴレンが出され、正直食べ飽きた。ただ、一緒に出される赤いサンバルソースはお気に入りで、べたべたとナシゴレンに塗りたくって食べていた。酸味と辛さが、身体を包みこむようなバリ島の熱気に合っているような気がしたのだ。スーパーで安く買えるところも良い。

スーパーと言えば、ちょうどサンバルソースを探している時に現地のおじさんに話しかけられたことを思い出す。日本語が堪能で、気づけば知り合いがやっているというアクセサリー屋さんへ連れて行かれ、友人と指輪を購入していた。その後、おじさんの運転するバイクに三人乗りをし、ひざを擦りそうなほど狭いぐねぐねした路地を抜け、観光客は誰一人いないような地元感溢れる食堂に案内された。多少緊張していて何を食べたかあまり思い出せないが、簡素なお皿やおじさんがスプーンを握る指、もの珍しそうな視線なんかがパズルのピースのように記憶の中に残っている。

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バリ島で一番美味しかったのはナシチャンプルである。惣菜のようなものがお皿にたくさん乗っかっている庶民的な見た目の料理で、とにかく安い。スパの帰り、送迎車の運転手さんに「美味しいランチが食べたい」と告げたところ一皿数千円するようなシーフードBBQの店に連れて行かれ「この車のナンバーを店の人に伝えて」というので、「わかった」とお店に入るようなふりをしながら慌てて逃げ出した。貧乏学生にそんなお金の余裕はないのである。街から少し離れ、道の両脇には木々が生い茂り、子供が裸足で走り回っているような場所を友人と二人てくてく歩いた。景色は少しカンボジアに似ていた。ガイドブックを頼りになんとかたどり着いたのが、ひっそりと佇むナシチャンプルのお店だった。観光客はあまりこないのか、注文の言葉がうまく通じず途方に暮れていたら、英語とインドネシア語を操る他のお客さんが助けてくれた。

ようやく一息ついて口にしたナシチャンプルは、たまらなく私達を安心させてくれた。全体的に茶色く、濃い味付け。かしこまったところがない、地元の料理。それぞれのおかずはなんだか似ているようで違う。いくらだったか正確に覚えていないけれど、色々な種類のおかずが食べられたのに驚くほど安かった。またあのお店に行ってみたいけれど、どこにあったのかまるで覚えていない。

最終日は、クタ・レギャンについた時から気になっていたお洒落なレストランに入ってみた。テラス席に座ると、近くにはぼんやりと照らされたプールが見えてとてもきれい。欧米人のお客さんが多かった。私達は全然お金を持っていないので、前菜を一皿と、友人はコーヒー、私はアマレットをストレートでちびちび飲んだ。一杯で三時間ほどねばっただろうか。二人で延々と話をする時間が楽しかった。

翌月は別の女友達と二人で韓国へ行った。卒業旅行のシーズンである。私はなぜか行きの飛行機の中でおなかを壊し、韓国に着いてからもずっとトイレ通いが続いていた。けれども、韓国には食べるために来たのである。辛いものを浴びるように食べたい。ということでランチにはビビンバを食べ、夜は豪華な韓国料理のコースを堪能した。まだ動いているタコを食べるのもずっと憧れていたことの一つ。いざ食べてみると吸盤の吸いつく感覚が面白かったが、おなかへのダメージは気になるところである。

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夜、韓国料理を食べたお店では、関西弁を自在に操る陽気なおばちゃんが働いていた。おばちゃんは、「あんた達、女二人で旅行なんて寂しいなあ」とひどいことを言うなり、私の椅子をぐいっと後ろ向きに回す。後ろのテーブルでは同い年ぐらいの日本人の男の人二人が食事をしていた。「せっかくだから四人でどこか行ってきなよ」と無茶苦茶なことを言い出すおばちゃん。おばちゃんの勢いに押され、その後四人で近くのバーへお酒を飲みに行った。せっかくのお酒だったのだけれど、私は少し口をつけるやいなやトイレへ駆け込むという状況。正露丸でも持って行けばよかった。

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最終日の夜は、ちょうど韓国へ旅行に来ていた共通の友人二人と合流し、韓国に留学していた別の友人にごはん屋さんへ連れていってもらった。おなかを気にしながらもそもそと食べたので味の記憶がほとんどないのだけれど、店内に充満した鍋の熱気が心地良かったことを覚えている。冷えた身体を芯まであたためてくれる料理。冬の韓国らしくて素敵である。

大学を卒業し、しばらくの間は海外へ行けなかった。ようやく海を越えられたのがついこの間の年末年始のことである。彼氏と一緒にバリ島とシンガポールに二泊ずつ滞在した。出発直前、深夜1時頃に空港で食べた牛丼の美味しいこと。

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久しぶりのバリ。社会人になり、前回よりも贅沢に過ごせた。お酒だって何杯も飲める。もうストレートのアマレットをちびちびなめなくてもいいんだぞ。もうできない楽しみ方と、今しかできない楽しみ方があるなあと感じる。そしてきっと、今はまだできない楽しみ方もあるのだろう。

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コンラッドバリはサービスの行き届いた素敵なホテルだった。日光の降り注ぐプールサイドの椅子に寝そべり、小説を読みながらカクテルを飲む。眠くなったら少し眠る。プールに入って身体を動かし、タオルにくるまってもう一度寝そべる。何時間でもそうしていられる気がした。

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シンガポールでは、彼氏が「これを食べるために来た!」というほど美味しいチキンライスをいただいた。天天海南鶏飯という行列店である。夕方16時頃に並んでいると、お店の人が出てきて「もう売り切れ」というようなことを言い始めた。私は諦めてすごすご帰ろうとしたが、「いや、まだいける、まだいける」と彼氏が粘るので半信半疑並んでいたところ、ちょうど最後の一皿にありつくことができた。不屈の精神って大事なのね。後ろの中国人カップルがとても残念そうにしていたので心が痛かったけれども。

ライスにしっかりと鶏出汁の味がついていて、香りも良い。鶏肉はもっちりしっとり。一人で一度に五皿ぐらい食べたい気持ちに襲われた。これが行列店の実力である。ソースは想像以上に辛くてうれしい。

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川のそば、夜風に吹かれながら年越しの時間が近づくのを待った。陽が落ち、空の色が濃くなるにつれ、街は陽気さを増していく。杯を重ねるごとに饒舌になる。ビールをしこたま飲んだら、次はのんびりとカクテルでも。と思いきやジュースのようで、ごくごく飲んでいるとあっという間になくなってしまう。シンガポールのごはんはバリ島よりも値段が高く、大体日本と同じぐらい。

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マリーナ・ベイ・サンズのラウンジでの食事は素晴らしかった。植物園をはるか下に眺めながら、食べ放題のおつまみと飲み放題のワインを楽しめる。最近、ごはん屋さんへ行く度に、人との会話がはずむ場所とそうではない場所があるなあと感じているのだけれど、マリーナ・ベイ・サンズのラウンジにあるテラス席はついつい語り合いたくなるような場所だった。そこにいるだけで、幸福感に包まれて楽しい気分になれる場所。

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今回の旅行で絶対に行きたいと思っていたムトゥース・カリーにも行けた。会社の人におすすめされたお店で、ガイドブックにも載っている。雨がぱらぱらと降り始めたリトルインディアを早足で歩き、高級感のある店内に駆け込む。出されたカレーはどうやって食べるのかよくわからず、きょろきょろしてしまった。暴れたくなるぐらい辛いカレーを、ライスでなんとかごまかしながら口に放り込んだ。二人とも辛党なのだけれど、それでも我慢できないぐらい辛いカレーであった。「辛すぎていらいらする」と二人してつぶやきながらなんとか完食。食べ終えてみると、驚くほど爽やかな気持ちに包まれている。

日本でもまだまだ食べたいものがありすぎて生きている間には到底食べ切れなさそうなのに、海外にまで目を向けたらどうなってしまうのだろうか。もっと色んな国へ行って、食べたことのない料理とランデブーしてみたい。数年経って舌先が覚えているのは、高級な料理とはかぎらない。その時の匂い、音、会話、そして味。それらが一体となって私の中に鮮烈に残り続けるごはんの記憶がある。何かの弾みで忘れてしまいたくないから、こうして書き留めておこうと思う。時が経てば経つほど、もう戻れないあの時のごはんの時間がなんだか切なく、甘く、私はおやつを口にするかのようにそっと思い出してはまた大事にしまいこむ。そして、次はどこへ行き何を食べ、どんな記憶を残そうかと、一人思いをめぐらせる。


箱庭の外へ

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こんにちは、shioriです。

今週のテーマは、「20歳のとき、なにしてた?」。私は誕生日が12月なので、20歳と言えば大学3年生のイメージかな。そして大学3年生と言えば就職活動。

確か、インターンの合同説明会は3年生の6月頃から開催されていたような記憶がある。新宿かどこかのオフィスビルへ朝から行って、ビルをぐるりと囲むような行列に一人で並んだ。

就職活動は、たくさんの人と知り合えるというところに面白さを感じていた。その日知り合った人たちとイベント終わりに流れで飲み会へ行くのが好きで、少人数のグループワークセミナーのようなものばかり探しては足繁く通っていた。夏のインターンにも何個か行った。「就活生飲み」みたいなものにもちょこちょこ顔を出した。もはや何が目的で就活をしているのかよくわからない。

自分で言うのもなんだけれど、私はわりと真面目な学生だったと思う。大学4年間で授業を休んだことは5回もないぐらいだったので順調に単位を取り、大学3年にもなるとほぼ授業がなかった。なので、平日も土日も就職活動と飲み会にひたすら時間を注いだ。本当にただただ飲んだくれてばかりの日々だった。

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週6、7回の飲み会は当たり前。1日にランチと飲み会3件のはしごなど、予定をぎゅっと押しこみ、セミナーや面接もぎゅぎゅっと押し込み、毎日終電帰りで朝は早く起き、分刻みで行動していた。まるで何かに追われているようだった。あのひりひりする感じ、なんだか懐かしい。

あの頃、おそらく1000人以上の人と出会った。残念ながらもう会うことのなくなった人はたくさんいるけれど、一握りの人とはいまだに仲良くしている。とにかく人に出会おうと外を歩き回っていなければ、今の友人達とも知りあえていなかったのだなあ、と考えると20歳の私グッジョブである。

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初めて海外へ行ったのも20歳の時だった。大学の授業で、3週間北京と上海へ行き中国語を学ぶというものがあり、履修することに決めたのである。中国という国は日本にはない熱気で包まれていて、途方もない規模の文化があって、ただただ圧倒された。

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私がこれまでひっそりと生きてきた練馬区の小さな町は、まるで箱庭のようだった。こじんまりとしてあたたかくて、家族に守られ、好きな人と寄り添いながらぬくぬく暮らしてきた。

大学3年生になり、足を踏み入れた場所はジャングルのようだった。就職活動の過程で知りあった中には、私とは相容れない思考を持った人達もいた。傷つくことも増えた。

けれど、どんどん新しいことをやらなきゃ、知らない場所へ行かなきゃ、色んな人に会わなきゃ、みたいな強迫観念がその頃あって、とにかく毎日必死で生きていた。やってみたいなあと気になりつつも大変そうで尻込みをしてしまうようなことに直面したら、必ずそれをやってみる、ということをポリシーにしていた。中国での授業もそう思って挑戦したことの一つ。

やらないうちから、できないと決め付けるのはもったいない。それに、そういうものって往々にして、後から「やってよかったなあ、あの時やめておかないでよかった」と思うことが多いのである。そうやって毎日を過ごしていると、やりたいことをやらせてもらえるようなチャンスがふってきたり、新たに興味を持てる対象に出会えたり、さらに色んな人と繋がれたりした。

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あの頃の私は、今よりも100倍ぐらいアクティブだったと思う。ジャングルツアーは楽しかったけれど、今の私はまた心地よい居場所を見つけてしまったので、その中でぬくぬくと暮らすことに決めた。世田谷にある、小さくてあたたかい箱庭。20歳の頃よりも自由な時間はかぎられているから、今大事だと思っているものを精一杯慈しみたい。肩肘張らないで、やさしい時間を過ごしたい。あの頃はあの頃でよかったし、今は今でとても幸せである。いずれにせよ、「こうしたい、こう過ごしたい」という気持ちに忠実になる生き方は、20歳の頃から変わっていない。