めぐるめぐるよ 時代はめぐる

3.11

震災のことについて書くこと、話すこと、考えること、
とても苦手で、あまり話したり語ったりできません。

何も考えていないと思われたり、何もしていないって思われたりするのだろうと思います。
でも、語れるほど、なにかを感じられるほどの知識、経験が私の中にありません。
私は被災していないから、手に取るように全てを理解、共感できません。

ただ、そんな私がこの震災をとおして思ったことを、3つかきます。

『善、偽善』
偽善だ、偽善だ、とたくさんの行為や活動に対しての言葉がありました。芸能人による物資配給とか、支援とか。
私は、偽善と善の見分けがつかないなと思ったし、そんなことは今見分けなくていいのではないかと思いました。

私は、いま被災した人たちにとって、偽でも、偽でなくてもそんなことはどうでもいいのではないか、
問題はそんなところにはないのではないか、食べ物が届くこと、暖かい毛布が届くこと、
その事実に、その手に渡ること、それによって救われたこと、ただただそれに尽きるのではないか、と思いました。

『自粛』
たくさんの娯楽、イベント、曲の発売が自粛になりました。アーティストは活動をやめたり、歌詞を変えたりしました。
自ら粛することは、自らの判断なので、それはいいと思うのですが、こういう時なのだからと、
自粛していないひとたちを非難することには、繋がらないのではないかと思いました。CMにクレームが来て差し替えられたり。

いま必要なのは非難することなのかな、と思いました。この生産性のない非難をとりあげて、真に受けるのではなく、
もっとあげる声や伝える声援があるんじゃないかな、と繰り返し繰り返し流れる洗脳的CMをながめながら思いました。
粛したい人は粛する、なにか意思を思って伝えたいことがあるなら、伝える、それでいいんじゃないかなと思いました。
全員が満場一致で自粛しているあの風潮が、とても不思議でした。

『できること、できないこと』
あのどうにも抗えない自然の威力により、もたらされた被害を目の当たりにし、たくさんのひとが自分の存在について
何度も何度も自分に問いかけたことと思います。
個人はもちろん、企業として、団体として、自分のしていることは何なんだろう、自分の仕事って何なんだろう、
自分の存在って何なんだろう、いまこの大災害における自分って何なんだろうとなったことだと思います。

私があの日、たまたま帰宅難民になった挙句たどりついたタリーズコーヒーの店員さんが粛々と、
お客さんに毛布やドリンクを提供し、何事もなかったかのような振る舞いをして、店員としての役割を徹していました。
あとから聞いた震災直後のディズニーランドのキャストは立派な立ち振る舞いをし、世間から高い評価を受けました。
たまたまその日、あの時間シフトに入っていただけなのに、でもだからこそ、自分の役割に徹したひとがいました。

その他にも、被災地に行って瓦礫の処分をするひと、被災者のために配給にいったひと、募金をしたひと、情報を伝えたひと、
歌を作りったひと、たくさんのひとが行動を起こしました。

私は、その行動の規模は比例してほしくないなと思いました。
東北に行ったひとを見ながら、近所のスーパーで500円の募金をしたひとが、自分はなにもしていないと、うしろめたさや
自分の小ささを感じることはないんじゃないかと思いました。
自分は何もできてないとか、思うべきところはそこじゃなくて、もっと違うところ。
行動は違えど気持ちは同じで、支援というものは、すべて大も小も、ちゃんとつながるべきところにつながると思いました。
誰かを助けるために、自分を脅かす必要はなく、誰かを助けるために、自分にできることを自分ができる範囲で精一杯していけばいいんじゃないかと思いました。

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3月11日、東京での筆記試験の受験中、ぐわんぐわんと揺れるビルの中で、机の下にもぐりながら、もう家族に会えないことを覚悟したあの日。
家に帰れと言われても交通機関が麻痺していたため、徒歩で見知らぬ土地をただひたすら歩いたあの時間。

色んな難しい問題があって、色んな過去があるから、絡まり合って未だ解決しないことがたくさんあります。
被災しているひと、原発の近くに住むひと、家族を亡くしたひと、仕事を失ったひとの涙があります。
屈強にくじけず、ひたむきに前向きに生きる姿をテレビ越しにみて心が震える日があります。
二度とこのようなことが起こらないようにするための運動、
この日どんなことがあったのかを覚えておくための活動がたくさんあります。

とりあげるべきところ、見るべきところ、称するべきところはそういうところ。
覚えておくべきところ、感じるべきところを間違えたくない。