さいごのひときれ

どうやら、今年で26歳になるらしい。

誕生月まで後10ヶ月ほどの猶予があるため実感はあまり湧いていないけれども、なんだか遠いところまできてしまったな、と途方に暮れている。過去の思い出に浸りながら、ぬらりと生きているような毎日なのに。過ぎ去った日々の記憶は、時が経つほどにきらきらと眩しさを増して私の目を射るのだ。

小学1年生の時、全校集会で体育館の端に並ぶ6年生はとても大きく見えた。25歳になった今でも、記憶の中にいる上級生達は厳然としてお兄さん、お姉さんである。彼らは、今の私が腕の中にくるんでしまえるような小学生であったはずなのに。回想をする時、私はちっぽけな子供へと戻る。

年齢とは決して、子供と大人をわける絶対的な指標ではないように思える。小さな頃は成人すれば大人になるのだと信じていたけれど、20歳の誕生日を迎えた日も、着飾って成人式に向かった日も、私は昨日の私の連続でしかなかった。社会人として毎日働いていても、親と会えば自分が子供のままのように感じられる。

「歳をとるのはあっという間だよ。大人だなんていう実感もないまま、こんな年齢になっちゃった」とかつて誰かが話していた。彼女は、その時30歳を過ぎていたはずだ。私だって、この前大学を卒業したと思ったらもう26歳。はるか遠くにあると思っていた「アラサー」に片足を突っ込んでいる。私は、いつ大人になったのだろう。いや、本当に大人になんてなっているのだろうか。

「そりゃもう20代後半なんだから大人に決まっているよ」とも思うけれど、大人になる年齢というのは不確かなものである。日本の歴史を振り返れば男の子達は15歳ぐらいで元服し、もう大人として扱われていたのだ。15歳なんてまだ子供じゃないの、と私は思うけれど。彼らは自分が大人になったということになんの疑問も抱いていなかったのだろうか。今よりも寿命の短い時代だから、子供として悠長に日々を過ごしているわけにはいかなかったのかもしれない。

大人とはなにか、と考えれば考えるほどわからなくなる。かつて社会心理学者のミードが言ったように、子供は大人の真似をすることで社会的役割を取得していく。やがて社会を構成する一員となれたなら、それが大人になったということなのか。それとも、精神面での成長が不可欠なのか。そうだとすれば、成長という連続的な過程において子供と大人の境になるものとはなんだろう。そんなものは元より定義できないから、元服式や成人式なるものが存在するのかもしれない。子供、大人なんていうものはただの枠組みでしかなく、誰かが好きなようにその定義を決めて、きりの良い日に一律に大人という役割を与える。

でもその枠組みとは別に、自分の中にも子供、大人の区別が存在している。それはとても主観的なもので、子供として連続してきたわがままな私ではなく、大人としてのもっと別の私にいつかなれるのではないかと、成人になった今でも漠然と考えている。けれども、自分の価値観が大きく変わるようなことはなかなかない。変わらずにいるかぎり、子供だった今までの自分とは決別できない。たとえ、外部から「大人」という役割を与えられたとしても。

それなら、私が本当に大人になれるのは、いつか子供を持った時かもしれないな、なんて最近は思っている。それが、唯一これから私の価値観を大きく変えうる出来事ではないかと、期待しているのだ。自分を犠牲にしてでも守りたい、慈しみたい存在ができた時、価値観も日常もこれまでとは違ったものになるだろう。

甘え、ほしがってばかりの私が、教え、与える側に回る。この関係性によって、ようやく名実ともに私は大人になれる気がする。まだ小学1年生だった私たちに色々なことを教えてくれた上級生が立派な大人に見えたように、大人であるということに年齢など関係ない。そして、人から大人と思われることと、自分自身を大人と認めてあげることはまた違うのだ。

親になったら、精一杯大人ぶってやろうと思う。これまで甘えっぱなしの人生で、人から教わることが非常に多かった分、教えられるものの蓄積はある。たくさん頭を撫でて、たくさん抱きしめて、私がこれまでもらってきた愛情を今度は子供にしっかりと伝えてあげたい。些細な問いもおろそかにしないで、一つずつ真剣に答えてあげたい。世界中のきれいなものを見せて、世界中の美味しいものを食べさせてあげたい。いくつになっても私はただの私でしかないけれど、きっと子供の前では立派に大人になれるだろう。

小さな頃、お皿に乗ったりんごの最後の一切れを「いいよ、食べなさい」と両親がいつも私にくれた。大人になると好きなりんごを食べるのも我慢しなければいけないのか、悲しいなあ、申し訳ないなあ、と子供心に思っていたけれど、今ならわかる。自分で食べるりんごより、大切な人が嬉しそうに食べてくれるりんごの方が、甘い甘い味がするのだ。