和食を作る時間の静けさが好きだ。
落し蓋をした鍋が、ぐつぐつ、と時計の針のようにやさしく時を刻む。油を使うことが少ないため、じゅーっと勢いの良い音がキッチンであがることはあまりない。昆布から出汁をとる。塩蔵わかめを水で戻す。出汁に白味噌を溶き入れる。料理が食卓に並ぶまで、時間は穏やかに流れていく。
包丁が木のまな板を叩く、ことこと、という音に、子供の頃の記憶が呼び起こされてはっとする。東京の端っこ、住宅がみっしりと立ち並ぶ細道を抜けて家のドアを開けると、母親はこちらに背を向けて台所に立っている。大きな鍋からは湯気が上がり、醤油と味醂の甘辛い香りが鼻先をくすぐった。ことこと、というやさしい音とともに、まな板の脇に寄せられた人参の山が少しずつ高さを増していく。誰かのために黙々とごはんを作る背中はあたたかい。
日本人にとっての和食は、きっと郷愁の味だ。胸がきゅっと切なさで満たされるのが好きで、私は毎晩のように醤油と味醂を使った料理を作る。ぐつぐつと煮立ち始めたら、鍋に覆いかぶさるようにして湯気に混じる香りを楽しむ。料理の醍醐味の一つは、こうして香りを存分に堪能できることだ。火を入れた醤油やにんにく、異国情緒溢れるスパイスの香りは、食卓よりもキッチンでいただく方が美味しいかもしれない。
週末に観た「ジュリー&ジュリア」では、ジュリアが「洋服を買うのと同じぐらい、食材を買うのが楽しいわ!」というようなことを言っていたけれど、私も同感である。最近は醤油に惚れ込んでいて、特産品展なんかに行くと、あちらの醤油もこちらの醤油も喉から手が出るほどほしくてたまらない。醤油に思いを馳せていると、フジロック帰りに寄った越後湯沢駅の醤油売り場がふと恋しくなる。あそこでは様々な醤油の味比べができるのだ。
新しく手に入れた調味料をどう味わい尽くそうかとあれこれ考える時間は幸せだ。先日はお土産に石川県の魚醤を買ってきてもらった。もちろん、出発前からせがみたおしたのである。イカが原料で、瓶の口に鼻を近づけると独特な香りがする。手強そうだけれど、どうにかしてこの子を使いこなそう、と心に決めた。なんだか胸がどきどきする。やはり、洋服をもらうのと同じぐらい、調味料をもらうのは嬉しい。
「和食は引き算」だと聞いた。食材の味を存分に活かし、シンプルな美しさの光る一品を作り上げる。
これは、女性の「引き算メイク」に通じるところがあるような気がする。ファンデーションは厚塗りしすぎないこと、マスカラはダマになるほど重ねないこと。それなら、元の肌が綺麗でなくてはいけないし、元のまつ毛が太く長くなければいけない。元の素材にどれだけ手をかけてあげるかが引き算メイクの極意なのだ。化粧水、乳液、美容液でたっぷりと保湿。まつ毛にもトリートメントで栄養を与える。規則正しく充分な時間の睡眠も大事。
いざメイクを施す段になると、細かな部分に技が光る。透明感のある素肌になるようクマやシミはコンシーラーでぽんぽんと隠し、まつ毛はビューラーで自然なカーブに。顔の周りと鼻の脇にサッとシャドウを入れて、頬骨と鼻筋にはハイライトを。これほど手をかけても、まるで素顔のよう。
上質な素材を、丁寧に下ごしらえする。和食にとって、それが大事なことの一つなのだろうと最近感じる。素朴な見た目のお味噌汁や煮浸しも、口をつけると昆布出汁と鰹出汁の重厚な旨味に惚れ惚れする。この出汁をとるまでに長い長い時間がかかるのだ。
先週末、初めてふきを買った。板ずりしてからたっぷりのお湯で茹で、茹で上がったら水に漬けて、一本ずつ皮と筋を取り去る。ふきの下ごしらえにはかなりの手間がかかる上に、茹でたばかりのそれはお世辞にも良い香りとは言えず、手を鼻に近づけると顔をしかめずにはいられない。けれども、ふきを握って一人キッチンに立つその時間は、とても愛おしく感じられた。皮を下にすべらせると、つるんと顔をのぞかせる鮮やかな若草色。これで何を作ろう、と頭の中で考えを巡らせる。
しん、と静まり返った家の中で、時間はそっと流れていく。